小沢元代表を無罪とした一審判決について、指定弁護士は3人全員の合意で、小沢氏を控訴することとした。彼らのバランス感覚に欠けた独善ぶりには声もない。

彼らは言う。「無罪判決には明らかにおかしい部分がある。間接証拠を積み重ねることにより、小沢氏の故意を立証し、無罪を覆すことは可能」。
指定弁護士とすれば、有罪を求刑したものを無罪にされたのだから納得できないのは当然だろう。

しかし判決に致命的な矛盾があるわけではない。にもかかわらず駄々っ子みたいに「納得できないから控訴」とやっていいかどうかは別問題だ。
今回に関しては常識や社会正義の観点から許されない。その理由は以下のとおりだ。

・これは、ゼネコンからヤミ献金がなされたとする検察の見立ての失敗により、問題帳簿 の期ずれ矮小してさえ、検察が起訴できなかった事案であること
・検察審査会の起訴自体が、検察の不当な意図と情報操作によるものであること
・上記のとおり大元の強制起訴が社会的公正を失っているにもかかわらず、控訴するかど うかによって、この国の社会に超弩級の影響を与えること。
・この無罪判決を控訴審で逆転する可能性は著しく低いこと

指定弁護士は、小沢氏への好悪の感情や支持の有無等は度外視していよう。それは当然である。ちなみに本稿を書く私もその点は同様である。
しかし彼らは、上記のような事情も無視している。そして刑事訴訟法の規定に基づき、自ら信じるままの行動をとったというわけである。

この発想は、独善ともいうべき法律至上主義の典型である。
そもそも法律とは、本来追及すべき社会正義が抽象的であるため、これを具体化するために文章化したものである。分かり易くいえば、法律は社会正義実現のための手段に過ぎない。

ところが法の不備や社会の変化により、往々にして両者にはズレが生じる。疑わしい政治資金を追及された際の政治家の決まり文句、「それは法に則り適正に処理されている」の胡散臭さは、そのズレの典型である。

両者にズレがあったらどちらに従うべきか。法律が社会正義実現の手段である以上、それは社会正義のはずだ。したがって現実的には、法律を社会正義に合致させるべく臨機応変に解釈していかなければならない。

ところが法律家という人種は、とにかく法律の条文に従うべきと言う。理由は「法律がそう定めている」である。そして解釈の幅も最小限度にという(全くの余談だが、検察や各省庁はこの法規定を好き勝手に解釈し、デタラメともいうべき行政が多々執行されている)。

しかしこれは法律屋の独善・思い上がりとしか思えない。そこに社会正義の優先・尊重という姿勢がほとんどないのだ。その理由は「法律の何たるかは我々が決める」とするエリート意識に基づく傲慢さ。そして彼らが、社会正義やそのベースとなる社会常識にかなり疎い点等である。

今回の控訴はそれらの典型である。この控訴に社会正義は全く存在しない非常識な行為である。それは二審無罪判決が出た際に、控訴により発生したとてつもない影響に関して、指定弁護士は一切の責任を取れないことからも明らかである。
むろん彼らは「法的にそのような責任を負う必要はない」というのであろう。また関係者は事実上の泣き寝入りを余儀なくされるから、彼らには実害は生じまい。

社会常識ではそんな言い分は通らない。遠に社会的公正を失った控訴などにより社会を振り回してはならないのだ。確かに法律家とすれば判決に納得できない部分はあろう。しかし全体像を見て控訴を断念する。それが常識人のバランス感覚なのである。

最後に、この控訴は法律的にも許されないという民法の条文を示して本稿をおわる。
「権利の濫用はこれを許さず」