財務省はこの年度末の国の借金が1,024兆円になると発表した。まさに財政破綻。
一体何故このような事態になってしまったのだろうか。この責任はどこにあるのだろうか。

しかし今日、何故かそうした反省や責任論は聞こえてこない。あるのは「とにかく増税」といった掛け声ばかりである。しかし財政再建を目指す以上は、最初にこの点の議論がなされなければならない。

直接的にこの責任を負うべきは、やはり政治家と役人であろう。
まず政治家には選挙がある。どうしても有権者にいい顔をしたくなる。道路を造ります。年金を充実します。医療費は安くします。教科書は只にします。
政権交代を狙った民主党も負けてはいない。子供手当を出します。農業所得補償を行います。これでは財政はパンクする。

しかしこうした政治家の無理を押しとどめるのが役所の仕事ではあるまいか。彼らには選挙がなく身分も保障されている。その上で特大の権限を与えられて特定の分野を掌る。
たとえば年金に関して、政治家が国民受けするバラ色の支給をふりまこうとするとしよう。であれば専門的知識を駆使して年金破綻を訴え、これを阻止しなければならない。高速道路も医療費もすべて同様である。

ところが実態は正反対。待ってましたとばかりその尻馬に乗る。そうした予算獲得に走るのである。そうすれば各省庁の仕事や権限が増えるからでだ。こうして予算の付く仕事を創り出す人が出世する。その予算が社会のためになるかどうかなど、全く二の次。こうした発想は各自治体も同様である。

そして最終的にこれらを容認してきたのが財務省(主計局)である。本来は財布のひもをがっちり握り、それが世のためになるのか無駄なお金ではないのか、をしっかりチェックするはずの部署なのだが。
しかし財務省は、こうした予算要求のほとんどを容認した。その中には官尊民卑ともいうべき不当な予算も含まれる。天下り用の膨大な外郭団体もそのひとつである。むろんこれらは政治家の要請によるものではない。

これではいくら税収があっても足りない。今後消費税を20~30%に引き上げてもダメだろう。そうなれば、役人がさらに多くの予算を要求するからである。
つまり本気で財政再建をしようというなら、こうした無茶苦茶な役所文化を180度変えるしかない。つまり「役所文化の民間化」である。

ベースは人事である。民間も役所も組織人はそこでの出世を目指すからだ。
となれば、事業を縮小し予算を縮減させた者、不要な規制を外した者らを出世させる。また真に公益に資する事業や規制をスタートさせた者は、大出世とする。
そしてこれらと逆なことをした者や怠けた者は、どしどし降格させる。真の公益に向けてのこうした信賞必罰人事こそが組織を活性化させ、ひいては役所の予算を減らすことができるのである。

しかし役所は一切これをやろうとしなかった。何より予算の元締めの財務省が、これをすべて容認し無責任に予算を付けた。となれば最終責任は財務省が負うべきものと思う。

財務省が、財政規律を前面に打ち出した上で役所文化へ斬り込んでいたならば、事態は変わっていたはずである。政治家・大臣等が横車を押してきてさえも、役所全体が身を挺してこれに抵抗すれば、(世論の後押しを含め)これを封じることもできたであろう。
財務省にはこのように財政規律を守る責務があった。にもかかわらずその使命を放棄し完全に国家財政を破綻させたのである。

しかし財務省は、その責任をとろうとしないことはおろか、そもそもそうした発想すら持とうとしない。何より不思議なのは、この当たり前の議論が世の中に起きないことである。いかにマスコミや学者等が役所に籠絡されているかの証左でもあろう。

奇しくも「1,000兆円」の発表と同じ日に、元財務次官の武藤敏郎なる男による「財政再建へ決意を示せ」とするお説教が、新聞に掲載された。
自分らで破綻させておきながらの、全くのおふざけ。まさに「お前にだけは言われたくない!」である。財務省のOBどもは、全員坊主なり直ちに全ての役職を手放すべきであろう。

民主党の幹部が言っていた。「これから取り組む”社会保障と税の一体改革”を国民に要請するに際しては、国会議員が率先して議員定数の大幅削減といった身を切らねばならない」。まずはけっこうな覚悟である(リップサービスとは思うが)。
しかし議員定数の削減もいいが、何より先の「役所文化の民間化」を実践していただきたい。こうした大増税等の機会でなければ、このような革命的な変革はできないからである。

この「役所文化の民間化」、さらには大公務員改革さえしていただければ、必要な増税にはいくらでも応じる所存である。この約束をして本稿を終わることする。