前回、江川氏の手による、週刊文春(9月9日発売号)の村木元局長の冤罪事件(の予定)記事について述べてきた。今回はこの事件の問題の本質を読み取っていきたい。

まずなぜ村木氏は無罪を勝ち取れたのであろうか(繰り返すが、現時点では無罪は推測に過ぎない)。それは「この件に限っては、裁判所があたりまえの対応をしようとしたから」としかいいようがない。

つまり裁判所は通常、この程度の事案であれば強引に有罪判決を出している。判決文など何とでも書けるのである。
それは検察の捜査の杜撰ぶりが物語っている。検察からは「この程度の立証でも有罪にしてもらえる」という、裁判所への絶大な「信頼感」がみてとれるのである。その表れが前回述べた、「有罪率99.9%」であり「否認事件の無罪率3%以下」という統計数値である。

では何故「この件に限っては」なのか。実はそれはよく分からない。とりあえず考えられるのは「裁判員制度の全般的な影響(市民が裁判に参加しはじめた以上、こんなデタラメはそろそろヤメにしないと…)」ではあるまいか(ただしこれはかなり希望的観測)。もう一ついうと、被告人が裁判官が仲間意識を持つであろうキャリア役人であったという点も考えられよう。

いずれにしてもこの問題の本質は、裁判所の退廃・堕落である。裁判所が当たり前の審理を行えば、検察も警察もこんなデタラメな捜査や取調べはできない。これらをフリーパスにするからこそ悪事が横行する。私には「裁判所がこのデタラメを奨励している」としか思えない。
ちなみにわが国において概ね適正な納税義務が実現している大きな理由は、税務署が適正に機能している点に求められよう。

前回の記事の引用部分からも分かるとおり、江川氏もこうした状況はかなり的確に把握・記述している。しかしその記事の力点は、あくまで「こうした極めて困難な中、村木氏はよく頑張りとおした」にある。このような美談調はあまりに生ぬるい。
この事件は、司法の絶望的かつ構造的な問題を分かりやすい形であぶり出している。そのような滅多にない機会にあって、「がんばった結果、無罪を勝ち取れてよかったね」などといった論調に問題を矮小化されたのではたまらない。

ましてやこの記事の末尾は「(検察は)潔く負けを認め、今回の失敗の原因を自ら検証し、反省をすることで、信頼回復を目指してもらいたい」で結ばれている。
これでは「検察がたまたま失敗したにすぎない」としか思えない論調である。こんな結論はお話にならない(編集者からチェックが入ったのであろうか)。

おそらく無罪判決が出てからの大マスコミの論評は、従来どおり国民への眠り薬のようなものとなろう。そうした意味からも、江川氏のような良識のあるフリーな立場の人には、こうした構造的巨悪に対して、先頭を切って斬り込んでいっていただきたいのである。