東電の原発事故で、二本松ゴルフ倶楽部という福島県の名門ゴルフ場が閉鎖に追い込まれた。そこでゴルフ場は、東電に「除染せよ」と裁判を起こした。

すると東電側が金に飽かせて依頼した日本最大級の弁護士事務所が、とんでもない主張をしたのである。
曰く「放射線は原発から離れた無主物ともいう存在であり、もはや東電のものではない。仮に所有権をいうのであれば、現地の土に付合している以上ゴルフ場のものと言うべきである。よって東電には除染の法的義務はない」。

もうこの主張は無茶苦茶。法律がどうのという以前に、常識で考えてもらいたい。
東電さらには大法律事務所は、よくこのような恥知らずの主張ができるものだ。

そもそも法律とは、社会の高度化・複雑化に伴い、それまでの常識・社会通念を文章化したものといえる。しかしそれら全てを文章化することはとてもできない。また文章になじまない感覚的なもの等もある。したがってそうした部分は、法の解釈でこれを補うことになる。

この法の解釈のベースは、法の基となっている社会常識・社会正義でなければならない。そうである以上、「法律家」を任ずる者は、法律以前に社会常識を体得している必要がある。ところが現実は大違い。むしろ一般人よりもかなり劣っている。

まずは司法試験なるものがやたら難しかったため、社会常識を涵養すべき一般社会生活を営む時間がほとんどない。そして合格してしまえばやたらプライドが高くなり、発想が常識からかなり乖離してしまう。

まして裁判官は、任官すると激務その他により実質的に社会から隔絶されてしまう。ベースの社会常識が身についていないまま、法律知識だけ詰め込んだ頭でっかちにすぎない彼らに、まともな法律判断ができるはずがない。

逆に自惚れ屋の彼らは、常識人にはとてもできないような解釈を平気で行う。だから非常識なものを含め、ひたすら最高裁の指示に従う。さらにはとにかく「強いものを勝たせる」。これなら社会常識がなくともやっていけるし、何より身の安全が図れるのである。

この大法律事務所は、法律が何であるかが分かっていない。だから社会常識などクソ食らえとばかりに、あきれかえるような法律論を振り回す。
そもそも弁護士業界は、大枚払ってくれる依頼者のためなら「何を言ってもかまわない」と思っているようだ。

しかしそれは常識的に、さらには法律的にさえ誤りである。弁護士法第1条には、「弁護士は社会正義を追及すべし」と定められているからである。
確かにこれは罰則のない訓示規定に過ぎない。しかしいかに訓示規定とはいえ、あえてそれに真っ向から反するような行動を取ることは、実質的に違法というより他ない。

裁判所は、さすがにこの非常識な主張は受け容れなかった。しかし「除染は国や自治体が行うもの。だから東電はやるべきではない」といった屁理屈を付けて、東電を勝たせた。
また損害賠償請求も「ゴルフ場の線量は、文科省が一時期出した(やたら高い)基準より低いため、休業までする必要はなかった」として認めない。現実をまるで無視した判決である。

要するに裁判所は、「強い者を勝たせる」という鉄則を貫いただけ。常識も社会正義などあったものではない。まさに「ナントカ、蛇に怖じず」である。
この「法的な東電の免責」は、東電に大きな勘違いをさせてしまう可能性がある。それは社会的にかなりの悪影響を与えよう。

ではこの件は、常識・社会正義の観点からはどのような結論を導けば良かったのであろうか。
まずは東電の責任は免れようがない。しかし通常通りの法律を適用したのでは、我も我もといった賠償を求める動きを誘発してしまう。それでは東電も国もパンクしてしまう。そこでこうした社会情勢を踏まえた上での、中庸を得た法的な解決策を目指すのである。

解決策の探求は、原告・被告の両当事者にも求められる。仮に東電側の先の非常識な主張がなされれば、裁判所はこれを一喝した上で現実的な主張をするべく指導する。
こうして裁判所を含めた三者であれこれ主張・検討すれば、自ずと常識にも合致した落としどころは見えてくるはずである。そして関連する法律は、その落としどころに合致するように解釈するべきである。それが正しい法解釈なのである。

ところが裁判所を中心に、法律業界が法律を好き勝手に解釈・運用している。そしてその胡散臭さこそが、この国の停滞や退廃を招いている大きな原因であると考える次第である。