この12日に、本欄で「東電の無責任ぶりを放置する、生ぬるい福島での記者会見」とするブログを書いた。しかし生ぬるいのは国会の質疑も同様だった。よって今回はその続編というべき内容となる。

新聞報道によると、18日の参院予算委員会に、事故後初めて清水東電社長が出席した。そして共産党議員に、津波想定の甘さを指摘され次のように陳謝した。「14~15mの高さは想定できなかった。甘かったといわざるをえない。心からおわび申し上げたい」。

記事はこれで終わっている。つまり質問者はこれで納得し、違う質問に移ったのだろう。
冗談ではない。軽々に見通しが甘かったなどと言ってほしくない。「心からのお詫び」などは当然の話だ。質問者は何故ここで止めてしまうのか。問題の核心はこれからであろう。

前回も述べたが、想定津波の最高水位は5.7m。この地域の津波の歴史を考えれば、子供でも分かる論外の水準である。ましてやこの危険性は過去に何度となく指摘されているのだ。
にもかかわらず東電は、それに耳を貸さないまま「5.7m」で押し切ってきた。その理由は何なのか。これが問題の核心であり、この点こそが国会の場で明らかにされなければならないのである。

何より今は、「従来までの原発路線をこれからどうすべきか」を判断すべき瀬戸際にある。確かに「今すぐすべての原発を止める」は非現実であろう。
しかしこの事故により、「今後は原発を一切増設しないでまま、徐々に減らしていく」という考えは、多くの国民にかなり浸透しつつある。とはいえ代替エネルギー源が力不足の今日、既存勢力は「安全性に一層留意する」として推進を言い続けるであろう。

よって質問者はこの点を鋭く突っ込まなければならない。回答が前の福島での会見のように「津波は国の基準に基づく」というのであれば、「その基準をおかしいと思わなかったのか」と聞く。むろんその際には、これを定めた国の担当者(担当部署)を次回に国会に招致し、そこで追及する。それやこれやで、とにかく納得できるまでとことん追及するのである。

もし国や東電の「5.7m」の回答が、それなりに納得のいくものであれば原発も生き残る余地が生じてこよう。しかし常識的にそのような理由があるとは思えない。逆に、前々回の本欄で述べたように、その背景にはおそるべき発想があるように思えてならないのだ。

それは、原発推進者(「原発村」)の都合上、高い津波のように絶対に生じては困ることは、「発生しないことにしてしまう」というものである。つまり外部からどう指摘されようと、「5.7m以上の津波は来ない」のだから、それに備える必要はないというわけだ。まさに思考停止そのものである。
この発想は、以前の陸軍よる「ソ連は攻めてこない」と同じ。この陸軍と同じように、「原発村」はこうした幼稚極まる発想で、日本国を壊してしまいかねないのである。

国会での徹底的な追及により、「5.7m」が「発生しないことにしてしまう」であったかどうか、(それとも他にそれなりの理由があるのか)等を明らかにしていただかなければ、この国のエネルギー政策は定まりようがない。
むろんこのような大事故が発生させた以上、もう「ぐずぐず言わずにお上のいうようにやればいいのだ」を通用させてはならないのである。

にもかかわらず国会質疑のあの体たらく。ましてや質問者は(自民党等ではなく)共産党議員である。結局のところ、国会議員のレベルが低いということなのか(ひょっとして、共産党系の労組に配慮したのか…)。

余談だが、東電なり菅首相なりが「ベストを尽くした」といった答弁がなされると、それに納得するのか、質問を止めてしまうケースが極めて多い。これは八百長質問にしか思えない。
「ベストを尽くした」のは当たり前。その結果がうまくいかなかったのであれば、「それは何故なのか」が本来の質問のはずである。記者会見も国会質疑も、もう少しまじめにやって欲しいものである。