裁判員制度の合憲性を争われた事案で16日、最高裁は大法廷の全員一致で合憲の判決を下した。ただし裁判員制度は最高裁の現体制が導入したものである以上は、これは当然の判決といえる。
しかし制度は致命的・根本的な矛盾を抱えたまま導入されている。裁判員制度の将来は予断を許さないのである。

矛盾発生の理由は主に二つ。そのひとつめは、最高裁を含む法曹界の本音が裁判員制度を嫌っているという点にある。彼らは超難関な司法試験の合格者で法のプロを自認している。にもかかわらず素人の判断の尊重を強制されるなど、その強烈なプライドが許すはずがない。この嫌悪感はある意味当然といえるのかもしれない。

裁判員制度は、政権政党である自民党の行った司法大改革の一環として導入されたものだ。改革の背景には「裁判所の退廃」がある。
当初最高裁は、制度導入を葬り去ろうと策動していた。しかし機をみるに敏な彼らは、自民党が本気であることを見抜き、導入に向けての舵を切った。力関係では政権政党に敵うはずがないからである。

この「裁判所の退廃」を少し述べておく。
裁判所は、とにかく強いものを勝たせようとする。裁判官の人生は勉強一筋・仕事一筋で、社会経験が乏しい。つまり社会常識に疎いのである。法律の基礎にある常識に暗ければ、まともな判断力は培われない。だから「強い者を勝たせておけば間違いない」となる。

強い者の代表は行政である。裁判所はよほどのことがない限り行政を負かすことはしない。実はこれは裁判所自身の立場を守ることに直結している。だから人事権を握る最高裁事務総局が、そのような判決を出させるべく強力に誘導している。

とりわけ検察は自分たちの仲間でもある。実は警察・検察は人質司法(釈放なしの自白の強要)や証拠の隠蔽・捏造といった悪事を日常茶飯事で行う。しかし先の流れから裁判官は、検察官の言い分をそのまま信用し悪事を見逃す(逆に全てを認めてくれるから、検察等は悪事に走る)。その象徴が99.9%の有罪率である。

しかし裁判員制度導入に際しては、こうした「裁判所の退廃」はないこととし、これをタブー視してしまった。裁判所の面子を配慮したのである。そしてこれがふたつ目の矛盾発生の理由である。

従来の裁判には特に問題はなかったとするならば、一般の人には、何のための裁判員制度かが分からなくなる。だから「忙しい中、なぜ我々が出ていかなければならないのか。裁判は裁判官に任せておけばいいではないか」と考える。むろん権力追従のマスコミは、「裁判所の退廃」ぶりなど一切報道していない。

結局のところ裁判員制度は、基本的に法曹界と一般国民の双方から嫌われている。本質的には、単に法曹界をリードする最高裁の政治的判断で推進されているに過ぎない。これこそが、裁判員制度が抱える致命的矛盾なのである。

逆にいえば、最高裁の政治情勢の判断次第で廃止する可能性は極めて高い。具体的にいえば、裁判員制度創設の功労で最高裁長官になったというべき現竹崎長官の退任後がどうなるかだ。前述のとおり、裁判員制度の今後は予断を許さないのである。

さて裁判員制度導入から約2年半が経過している。むろんこの間に刑事司法がガラッと変わったわけではない。大変化が生じれば、従来の裁判がダメだったことが明らかになってしまう。大きく変えるわけにはいかないのだ。
これを有罪率で見ると、99.9%が99.6%になった。今年に入ってからは99.3%とのことである。まるで変わっていないともいえようが、無罪率が4倍、7倍になったという見方もあるだろう。

有罪率はさておき、新制度により少なからぬ面で改善があるのは事実である。これは裁判所改革にかなりの効果を発揮しているといってよい。
また最高裁が裁判員制度を推進している手前、マスコミもそれに沿った好意的な報道をしている。したがって裁判員制度は着実に根を下ろしつつあるのは間違いない。

しかしこうした改善を手ぬるい等とし、裁判員制度そのものを批判する一部民間の強い声も存在する。しかしこの制度を廃止しても、それに代わる改善がなされるわけではない。
裁判官が常識に疎いからこそ裁判が悪化する。だからそこに常識を吹き込むことのできる裁判員制度はよくできているのである。

とはいえ法律業界は、本音では裁判員制度の廃止を強く望んでいる。最高裁が廃止の方向に動き、マスコミが廃止に向けた情報を垂れ流せば、好意的になりつつ世論も簡単に変わってしまうだろう。
したがってそうなる前の今の段階で、半年後に迫った制定後3年目の制度見直しによる改善を含め、裁判員制度の一層の定着を図る必要がある。これらにより、将来の廃止の動きを封じ込めなければならないのである。