耳かき店員とその祖母が殺害された事件(去年8月)の被告人(42歳)が、昨日、検察側から死刑を求刑された。裁判員裁判では死刑求刑は初めての事案となる。裁判員は重い判断を迫られたわけである。

このような場合には、最高裁が昭和58年に定めた9項目の死刑選択基準(永山基準)が常に参考にされている。つまり罪質、動機、犯行態様(残虐性など)、結果(殺害人数等)、遺族の被害感情、社会的影響、被告の年齢、前科、犯行後の情状である。そしてこれらを考慮した上で、やむを得ないと考えられる場合に死刑を選択できると判示している。

これを踏まえて検察はいう。「被告人は、被害女性(21歳)に一方的に恋愛感情を抱き、来店拒否を受けたため憎しみを募らせ殺害を決意した。そのような身勝手な動機により、何ら落ち度のない2人(殺害時に邪魔だった祖母を含む)の命を奪った。遺族も死刑を望んでおり、極刑をもって臨むしかない」。

ちなみに私は死刑廃止論者というわけではない。ただし死刑はそう軽々に行われるべきではないと考える。そうした意味から、近年は死刑判決があまりに多すぎるように思っている。

それはさておき、こうした量刑判断に際しては、被告人の立場・発想を中心に考えるべきはあるまいか。すなわち前科の有無、動機や計画性、年齢そして犯行後の情状である。
裏返せば、遺族の被害感情、社会的影響、残虐性等はさして重視する必要はないと思う。その典型は、今回の検察側がいう「現場は血の海だった」とか「(めった刺しにした)果物ナイフは大きく折れ曲がっていた」といった話である。それらは興奮して人を刺し殺した結果に過ぎない。

遺族の被害感情に関しては疑問がある。どうしてこのような裁判の場にわざわざ遺族を呼び出して、「犯人が憎い」などと言わせるのであろうか。これでは検察のご都合主義にしかみえない。
遺族が怒り苦しんでいることは分かるつもりだ。しかし酷なようだが、起きてしまったことはもうどうにもならない。後は時間が解決するより他ないはずだ。

にもかかわらず、独特の雰囲気の裁判の場で被告の顔その他を見れば、不必要なまでの憎しみ感情が湧くであろう。それは遺族の傷口に塩を塗り込むようなものだ。仮に被害感情が知りたいというのであれば、遺族から書面を提出してもらえば済むだろう。
これらの点を含め、被害感情は量刑判断では大きな要素にすべきではないと思う。

一方、被告人には前科がない。二人を殺害したとはいえ、二人目は予想外の事態によるもので、犯行の機会は1回に過ぎない。計画性もさしたるものとは思えない。検察側は、被害者に落ち度がなかったという点を強調するが、それは積極的に死刑にすべきという理由にはなりにくい。
確かに動機の面では身勝手といえよう。しかし恋愛感情とはある意味そんなものではあるまいか(繰り返すが、これはあくまで加害者側からの発想)。

残る問題は犯行後の情状(反省の程度)である。弁護士は当然ながら「被告人は自責の念に駆られている」という。新聞報道によるとどうもそうらしい。しかし検察側は「本心からのものとはいえない」と批判する。
しかし少なくとも無反省であるといった態度をとっていない限り、悔いていると理解するより他なかろう。もっともこれは、裁判員等が実際に被告人の顔つき等を見た上で判断することでもあるが。

以上から、従来(死刑判決が多発)の基準から考えても、これは明らかに無期懲役で十分といえる事案と考えるしだいである。

以下にいくつか付け加えたい。
まずインフレ傾向にある死刑判決は、今後はかなり抑制すべきであるという点である(大雑把にいって4分の1程度へ)。
つまり死刑判決は、殺人罪による前科がある者の再犯(殺人)や、再犯がほぼ確実視される重大な性犯罪者、さらには超弩級の犯罪者といった場合に限るべきと考える(ただしこれらにあっても、汲むべき情状のあるケースは除く)。そしてその上で、死刑は法規定どおり速やかに執行しなければならない。

ところでいつも思うが、検察はどうして被告人をこうまで悪し様(まさに極悪非道)にいうのであろうか。まあそれが職責・商売といえばそれまでであろうが、これでは彼らの人格が歪んでしまうのではあるまいか。
しかし刑事司法の究極の目的は「真実の発見」(刑訴法第1条)とされている。どうも検察は、果たすべき使命・目的をはき違えているように思えてならない。

さて裁判員らは、来月1日の判決に向けて4日間の評議を行う。おそらく裁判員は、自身の価値観に基づき、様々な観点からこの難題に必死に取り組むものと思われる。
おそらく裁判官は、(彼らもそれなりにやってきたとは思っているのであろうが)このレベルまでの懸命な検討や審理をやった経験はほとんどないと思う。したがって裁判官には、こうした一般人の発想や考え方を謙虚に学び、今後の裁判に生かしていただきたいと思う。それでこその裁判員制度だからである。