一昨日、マージャン店経営者らの殺害事件に関して、裁判員裁判による初めての死刑判決が下された。前回に無期懲役となった耳かき店員らの件に比べて、この件は明らかに罪状は重い。死刑判決という結論は妥当と思われる。いずれにしても裁判員のご苦労に心から敬意を表したい。

さて記者会見の場で裁判員は言う。「遺族が法廷で話している時、(被告は)目を赤くしていた。私たちも泣いてしまった」。この涙は、裁判員達が「自分が被告であったらどう思うか」とする、次のような発想によるものであろう。

「自分があの被告の立場で遺族の話を聞けば、悔恨や謝罪の念から涙を流すしかなかろう。そしてやはり被告も目を赤くしている。とすれば被告は少しも特殊な人ではなく、自分と同じようなごく普通の人なのではあるまいか」。
その上で、「にもかかわらず、被告は取り返しの付かない罪を犯してしまっている。本当に気の毒に」と、裁判員は涙を流したのである。

その一方、裁判員は「自分が遺族だったら…」とも考える。したがって遺族が被告を憎む気持ちをも、痛いほど理解する。裁判員はそうした狭間で悩み抜いたであろう。そしてその上でこの事件全般に思いをいたす。それを「永山基準」を当てはめる等により、この最終結論を導いたものと思われる。

ところが職業裁判官のほとんどは、人を裁く上で必須とも思われる「人の気持ちが分かる」という人ではない。人生経験があまりに乏しいのだ。
彼らは若い時から勉強に明け暮れる。その甲斐あって、大学在学中や卒業一年目等に、難関の司法試験に合格。司法修習でも好成績を収めることにより、やっと裁判官になれる。

裁判官になったら仕事に追いまくられる。さらに最高裁による各種の厳しい統制に服する。彼らは、裁判所という特殊極まる世界しか知らない。
おまけに、ずっと「いい子」や「優秀な人」で過ごしてきているため、まず「悪さ」をしたことがない。「悩み」も一面的であったり、かなり底の浅いものに過ぎなかろう。そして彼らのこうした心を支えているのは、特大のエリート意識である。
したがって彼らは、一般社会生活で涵養されるべき常識・社会通念の体得が極めて不十分となる。そして人の気持ちも分かろうとしない。その意味から、うっかりすると次のようにさえ思っているかもしれない。「法の世界は、常識や人の気持に無関係に成立している。だから我々はそのようなものの理解は不要」

冗談ではない。法律などは何とでも解釈できる。その解釈を適正ならしめる基準が「社会通念」(さらにその前提としての人の「気持ち」)である。いくら六法を丸暗記していても、適切な社会通念の把握がなされていなければ、正しい法の解釈・適用などできるはずがない。

実は現行のシステムは、「ペーパー試験が優秀であれば、社会通念の体得を含め人格的にも優秀であるはず」という前提で成立している。ところがこの前提が全く狂っている。むしろペーパー試験の優秀者は、そのエリート意識が、社会通念・人格を大きく貶めているとしか思えない。
そしてこの点が、いつも指摘する(検察官に起訴された刑事被告人の)「有罪率99.9%」という、常識では全く考えられない数値に表れている。おそらく彼らは、自身が冤罪の判決を出してもそう悩まないのであろう。そうでなければ、こうした「何でもかんでも有罪」などという判決はとても出せるはずがない。

長文になって恐縮だが、これらの典型的事例として交通裁判の場合を考えてみたい。
裁判官のほとんどすべての人は、もう何十年と車の運転をしていない。運転免許すら持っていない人が大半という。そうした運転知らず(世間知らず)が、平気で交通裁判の判決を出す。むろん事故現場など見ようともしない(見ても分からないだろうが)。

ところが交通事故の裁判では、その場における運転者の独特の感覚に思いをいたさない限り、「何故に誰がどう悪いのか」など絶対に分からない。
しかし彼らにとっては、そんなことはどうでもいい。とにかく適当に法律を当てはめてもっともらしい判決文を書けば、一丁上がりとなる。何せ彼らは膨大な仕事を押しつけられている。良心的に悩む心もなければ、その時間もないのである。

一方、この事件のような死刑求刑事案であれば、裁判官も多少は悩むのかもしれない。しかし彼らは被告の立場になって考えることはしない。いわば権力の側にいる彼らは、「自分が犯罪者の立場に置かれるなどということは考えもしない」からである。だからほとんど平気で「一丁上がり」をやるわけである。

こうした裁判官の「効率的な行動」を、彼らは「しっかり訓練がなされているから」という人がいる。とんでもない。何にも分からないから平気でやっているに過ぎない。いわば「○○蛇に怖じず」である。要するに、最も裁判官をやってはならない人がこれをやっている。何度も繰り返すが、その故の「有罪率99.9%」なのである。

さて話を元に戻した上で論旨をまとめたい(とはいえその論旨は、本欄の前二回のものと同じ)。
前回の耳かき店員の件と同様、おそらく担当裁判官は、裁判員が行った真摯な対応ぶりには心底驚いたと思う。彼らは、このレベルまでの懸命な検討や審理をやった経験は、ほとんどないと考えられるからである。

イヤ是非そのように驚いていただきたい。そうであれば、「今までのやり方は、どこか間違っていたのではないのか」という疑念も湧いてこよう。そしてそうした疑念から逃げることなく、真摯にこれからの裁判に向かっていってほしいのである。

しかし下手をすると、こう考えている可能性も少なくなかろう。「何をつまらないことを悩んでいるんだ。だからレベルの低い素人はイヤなんだ。永山基準を当てはめればとっくに結論は出ているじゃないか」。
あるいは、一時は裁判員の対応に目を醒まさせられたにせよ、今までのエリート意識からすぐそれを捨て去り、この「何をつまらないこと…」路線に舞い戻ろうとするのかもしれない。

それでもこうした裁判員裁判は、裁判官が一般人の発想や考え方を知るまたとない機会を提供している。そして1人でも多くの人が、本来の裁判に目覚めていただくことを祈念したい。裁判員制度の最大の意義はこの点にこそあるからである。
裁判所の改革には裁判員制度が必須である。これからもこの制度・裁判員に期待したい。