「事実を闇に葬ったままでいいのか」。それとも「捜査で得た証拠を第三者に提供していいものか」…。
野球賭博事件の捜査がほぼ終了した段階で、大相撲の八百長メールの処理が、警察庁も交えて警視庁内で議論となったという(8日読売朝刊)。ただし八百長自体は、賭博行為を伴っていなかったことにより、既に立件不能と結論づけられている。

そして下した判断が「国技の根幹にかかわる不正を見逃すことはできない」であった。八百長は文科省さらにはマスコミを経由して、瞬く間に世に知れ渡ったわけである。

しかし警察らの下した判断は、法的にも道義的にも許されるものではない。公務員法を含め、「職務上知り得た秘密は漏らしてはならない」は、鉄則であり常識でもある。
冒頭の「事実を闇に葬ったままでいいのか」など、これを疑問に思う方がおかしい。いうまでもなく、職務上知り得た事実は闇に葬らなければならない。まして「捜査で得た証拠を第三者に提供していい」わけがないのである。

確かに今回に限っては、八百長メール公表はそれ相応の社会的な公益性が認められよう。しかしその程度のメリットと、「警察・検察は、知り得た秘密を恣意的かつ平気で第三者に流す組織である」と考えられてしまうデメリットと、どちらが大きいのであろうか。
そんなことは考えるまでもない。繰り返すが、これは明々白々の違法行為であり、それ以前に「社会的な公益性」からも許されないのである。

ましてや警察は、社会秩序の安定等のために、強制力を含む強大な権限が特別に付与されている。であれば当然に知りうる情報は桁違いに多くなる。そしてその分、とりわけ高度な守秘義務が課されている。
したがって守秘義務に関しては、法の遵守はもちろん、道義的にも後ろ指を指されることないよう、日々自戒していかなければならない立場にある。

ところが今回の組織決定としての違法・不当行為。理由は「国技の不正は許せない」である。
しかし警察のつとめは違法行為の取締りである。「道義的に許されるかどうか」などに首を突っ込んではならない。一体いつ警察は、「社会の道義面での指導・育成」の権限を付与されたのか。「思い上がりもたいがいにせよ」と指摘しておきたい。

ましてや勝手に「道義的に許されない」などと判断して、とりわけ法的に遵守すべき守秘義務をないがしろにするなど、お話にならない。
たとえば犯罪捜査の過程で、ある人が不倫をしているという事実をつかんだとしよう。そこで警察が「不倫は許されない」と考え、これをその配偶者に伝えたとしたらどんなものであろうか。

一般市民が警察にこうした不安を抱けば、警察捜査にはおいそれと協力できなくなる。たとえば「携帯電話などを渡せば何をされるか分からない」、などといった話にもなろう。となれば警察は、より強権的な動きに出てくるかもしれない。

この傾向が進んでいくと、警察にとって不都合な存在を陥れる手段にこれを使いはじめる。「道義的に許されるかどうか」など、その気になれば何とでもいえてしまうからだ。うかうかすると、暗い警察国家への道である。こうした動きは、警察さらには警察官個人にとっても不幸なこととなる。

話が少し飛躍したかも知れない。いずれにしても警察の守秘義務の遵守は、イロハのイである。何があっても、どのような口実があろうとも、これを死守しなければならない生命線である。
まして守秘義務は法的な義務である。法の元締めである警察・検察が、率先して違法行為を行うなど、許されるわけがないのである。

以上で本論は終わる。ただし少し本音の話をしておきたい。今日、警察は組織を挙げての裏金で、内部的にはかなりガタがきている。まして検察は証拠偽造等の問題で混乱のさなかにある。また警察も同じ問題を抱えている。
こうしたどうしようもない組織の幹部が、「国技の根幹にかかわる不正を見逃すことはできない」などと平気でのたまう。とりあえず役人の神経の太さに、敬意を表しておこう。

そして最後に、「国そのものの根幹にかかわる警察・検察の不正を見逃すことはできない」、という一国民の考えを示して、本稿を終わる。