当然の武富士贈与税裁判敗訴に、無反省の国税当局

武富士の元会長から長男が受けた株の贈与をめぐる課税問題で、最高裁は18日、
国の追徴課税処分を取り消した。国の逆転敗訴である。
長男は既に延滞税等を含め1,585億円を納付しており、予想される400億円の還付加算金を含め、約2,000億円が還付されることとなる。

この裁判の争点は簡単だ。当時の法律では、海外居住者への在外財産の贈与は課税対象外とされていた。そこで元会長は長男を香港に住所を移させ、3年半もそこに住まわせた上で、巨額の株式を贈与した。
ところが国税当局は、「居住目的が租税回避策にある以上は、住所は日本にあるといえる」として、長男に贈与税を課税した。この課税の是非が争いになったのだ。

つまり争点は、長男の住所(生活の本拠)は国内と香港のどちらと解すべきかである。
これにつき最高裁の判決は、長男がその3分の2の期間を香港に居住していたことに着目し、「香港滞在が課税回避目的でも、生活の本拠が香港にあったことは否定できない」と判断。その上で「こうした課税回避が許されないなら、立法で対処すべきだ」と指摘し、納税者の全面勝訴判決を下したのである。

この問題の本質は、新聞に引用されたこの部分の判決文に尽きている。要するに「法は、課税の可否は受贈者の住所で判断せよと定めている。であれば居住目的が何であれ、客観的に生活の本拠が香港にあれば課税できない。仮にこれを不公平で納得できないというのであれば、大元の法律を変えてから課税しなさい」というわけだ。

これは「法治国家、租税法律主義」などを持ち出すまでもなく、当然至極の常識的な結論である。
ところが判決を受けた国税幹部は、”税逃れの意図があっても、形さえ整っていれば許されるのか”といった、「やりきれない思い」を口にしているという。さらには「(税逃れの意図に対しては、今後も)積極的に課税する姿勢は変えない」とまで言い切っているのだそうだ。

これらは全くお話にならない。「税逃れの意図があっても、形が整っていれば許される」のは、当たり前の話である。一体この男は、法律を何と心得ているのか。
そもそも「税逃れの意図」は誰でも持っている。みんな余分な税金は払いたくないのだ。だから「その気持ちは分かるけど、このような場合には税金を払いなさい」と法律が定めている。だから皆がそのルールにしたがって納税しているのである。

しかしこの男は「税逃れの意図」があれば、法がどう定めていようと課税することができるという。
ではそこに「税逃れの意図」があるかどうかは、誰がどのように判定するのか。おそらくそれは「当局が判断する」と言いたいのであろう。であれれば役人は「お代官気分」になれてうれしいだろうが、国民はいつ「税逃れの意図」を指摘されるかどうか、怖くて仕方がない。こうした恐怖行政が絶対に許されないからこその、租税法律主義なのである。

まして「(今後も)積極的に課税する姿勢は変えない」とは何事か。判決は、「課税したいのなら、法令を変えてからやれ」と命じている。この最高裁の判決を何と心得ているのか。
要するに、国税当局は「法の何たるか」や三権分立といった、法体系のイロハをご存じない。そして組織的にこうした違法な発想を容認・推奨しているのである(だから税務の現場にいる私のような税理士は、日頃大変な思いをしている)。

さらに須藤正彦裁判長なる男は、「税回避スキームを使い、無償で財産を移転させたことは、著しい不公平感を免れない」と補足意見を述べているという(こんな御仁が最高裁判事をやっているのでは、この国も救われない)。

何をバカなことを。そんな不公平感と、国税側が「法を無視した形で、いつ何時無茶を言っていくるか分からない」という全般的な恐怖感を与えることと、どちらのマイナスが大きいか考えいただきたい。
イヤそもそも責められるべきは、そのような「著しい不公平感」を生じさせるような、お粗末かつ間抜けな税法を作らせた国税当局であろう。

いずれにしても今回の最高裁の判決は、当然とはいえ大いに公正妥当な内容であった。今後もこのような公正な裁判が行われ、さらには税務の現場に少しでもこうした発想が行きわたるように切に願っておきたい。